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久しぶりの更新 【「武富健治の世界展」感想】 [レビュー:マンガ]

ご無沙汰しております。トニイ(ぱわふる)です。

武富健治展のお話しですが、その前に近況報告。

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すっかりこちらのブログの存在を忘れていました。ミクシィはじめて、ブログを使わなくなり、ツイッターはじめてミクシィを使わなくなり……。それぞれ長所短所あるのですが、「手軽さ」が使用ツールのシフトにつながったというところでしょうか。

ブログは現在二つあるのですが、もう一つ(ゲーム関係)のブログがUIが使いづらくて、新規投稿にするのに何度もクリックせねばならず、結果として使いやすいはずのソネットブログも使わなくなってしまいましたねー。

さて、この間いろいろありました。

まず、実家(陸前高田市)が津波でなくなりました。両親は無事。同級生や知人を多く亡くしました。

引っ越しました。東京都池袋近辺から八王子(西東京で、池袋から1時間半くらい)へ。

勤務大学が一部変わりました。一都三県4大学で教えています。相変わらずビンボーです。

震災に関する共著を出しました。 

その他細々いろいろとありましたが、大雑把にはこんな感じ。機会があれば、別エントリで書きたいと思います。

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さて、さくっと更新するため「ネタでもないかなァ」とテキスト・エディタをみていたら、ツイッターで呟いた真珠湾ネタと、呟こうと思って書いたけどすっかり忘れてた、マンガ家武富健治さんの展示会のメモが出てきました。

折角書いたのに使わないのもモッタイナイので、今日は武富展についてのツイートメモを備忘録を兼ねて、書いておきます。

武富健治さんは、マンガ家。昨年ドラマ化され、今年映画化される『鈴木先生』の原作にあたる同名マンガを描いていらっしゃいます(こういう紹介はマンガ家に失礼なのですが、お許しください)



私は、短編漫画が好き。短編作品集『掃除当番』『屋根の上の魔女』を読んでいましたが、恥ずかしながら、『鈴木先生』は未読。そんな武富経歴ですが、明治大学の米沢嘉博記念図書館で催されていた展示会「武富健治の世界展」を見に行きました。

 

展示の公式WEBサイトはこちら。
http://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/exh-taketomi.html

前回エントリで書いた、みなもと太郎さんらが出席した「創作系同人誌の半世紀」のイベントをやっていたのと同じところ。ただし1階の展示場です。

訪問した理由は、短編で気になっていた武富さんのビブリオと作品の系譜をコンパクトに知りたかったのもありますが、それ以前にキュレーションと美術館・博物館などの「場」を見たかったのです。次年度以降大学の講義で、1~2回アメリカや日本の博物館展示について講義しようと考えていて、その一つのヒントになるのではないかと思っての観覧でした。(明治大学は日本の大学としては珍しく博物館を備える(抱える)など、昔から展示会に理解のある大学です)

もう日付も忘れちゃったな。武富展の第三期だったと思います。12月かな。ツイートしようと思って用意したメモをみると、土曜日のようです。「公開します」と書いていて結局公開しなかったんだなァ。なんだろ、自分(笑)。今見ると誤字が多く、文章も変で、さすが酔っ払って書いた文章なだけのことはありますが、最低限誤字だけ直して、そのまま載せてみます。最初は敬体で書いていたのが途中から常体になるとか、ご愛敬。

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【武富展1】 土曜日に、リサーチと会議の空き時間を利用して、明大の米沢嘉博記念図書館の「武富健治の世界展」を観覧。会議後の懇親会でしこたま飲み(紹興酒うめー!)、朝起きると、PCに酔っ払いながら書いた感想メモが。ちょっと悩みましたが、せっかくなので公開します。

【武富展2】 米沢図書館1Fのドアをあけると、真っ先に武富さんが自ら描いた鈴木先生の迫力のある大判のイラストが飛び込んでくる。これはうれしい! 事前にこの絵があることは知っていたけど、扉を開けた瞬間の「出会い」はトキメキ。

【武富展3】 実は恥ずかしながら、武富さんのマンガ経験は『掃除当番』と『屋根の上の魔女』のみ。それも3~4年前。この2冊は津波にあわず、今も部屋にあります。『鈴木先生』はまったくの未読の状態でした。それが、今回の展示(特にキュレーションの方法)で、俄然興味が!

【武富展4】 米沢図書館は小さい。図書館というと勝手に縦に小さく横に広いイメージを持ってますが、このビルは縦が5階?で各階面積が狭い。最初に訪問した時は「展示に向かないのでは?」と訝しがったもの。しかし、その狭さを生かしつつ、さらに作家展を一期で終わらせず、複数期展示を展開。これはむしろ見応えが増した。

※武富展以前にも吾妻ひでお展などで、同様に複数期開催しています。米沢図書館の短所長所を生かした展示になっていると思います。

【武富展5】 武富展は大判ポスター(ちょっと真ん中で剥がれてる(笑))を除けばフロアの奥3面を使用した構成。入口から右が初期作品や同人活動、実録系作品の展示、中央奥が鈴木先生と年譜、左手が作家環境的おもちゃ箱。

【武富展6】 右手。鈴木先生以前の作品が中心。私は短編大好き人間なので、その辺りの生原稿を見られるのは嬉しい。しかし、それよりも実録系作品の原稿を一作品じっくりと鑑賞できる横の面の使い方はなかなか。そして、小さいけれども左右下に武富さんの読書歴を提示。これは重要。

【武富展7】 本棚を見られるのは恥ずかしい、という知人がいる。さもありなんで、その人の思考(嗜好)の遍歴を如実に示すもの。その実物が数冊あるだけでも、作者本人との距離が変わる。そして、その段中程に「ゲッター少女3」とかいう落書き(アイデアだし?)原稿。いい。

【武富展8】 以前も思ったけど、この図書館の書棚は本を並べておくにはいいが、展示ラベルは工夫しないと見にくい。下段はさすがに屈んでも見づらい(そもそも屈ませる展示は仕掛けがない限り好きではない)。ラベルを斜めにしたり、文字の大きさを変えるなどの工夫が必要。

【武富展9】 たしか右展示だったと思うけど、武富さん自身の中に「いる」複数の自分(自我)を絵と文で説明した展示があった(本人執筆だったと思います)が、これがこの展示では最も中核をなす部分だったのではないか。その作者自身の自己の構成と「作品」の配置。

【武富展10】 中央では、鈴木先生の作品の製作過程が見える。ネーム原稿も展示があるのだが、武富さんは、多くの作品でコアとなるキャラクタを共有している。世界観が同じということでなく、別の物語でも同じ造形のキャラが登場するのだ。手塚治虫みたいに。

【武富展11】 過去の短編や同人作品からの、鈴木先生への「投入」や方法論が見える。右をじっくり見たからこその中央展示で、この展開は観覧者に「ぐっ」と来るものがある。鈴木先生未読で、短編集だけ囓っていた俺にもだ。キュレーションにうなる。ただ、年表は正直見にくい。ファンにはうれしいのも確かだけど。

【武富展12】 中央から左にかけて。ハニワット展示と武富さんが使用した道具やおもちゃなどが……。ハニワットについては右展示をじっくり見ればわかるのだが、不案内。武富ファンならばうなりもしようが、そうでない一般の漫画ファンには訴求力がない。もっと明確に「ハニワットとは何か」と説明すべき。

※古代戦士ハニワットは富武さんの同人マンガ。そもそも、展示会の閲覧者には米沢図書館の性質(単なるマンガ図書館ではなく、同人誌にも厚く着目した場であること)を知らない人も多いはず。ここを自明視せず、泥臭いほど丁寧な説明が必要なのではないのかなぁ……。/と、見たときは思ったのだけど、今考えると、きっと一期か二期で丁寧な解説をやってるんだよね。時間が捻出できなかったのだけど、やっぱり一期、二期も見たかった!

【武富展12】 特に米沢図書館は、同人作品に焦点をあてる希有な図書館なのだから、ドラマや鈴木先生の漫画や、ドラマだけでしかしらない人が見ても、同人作品と商業作品の架け橋を俯瞰できる作りにすべきではないのか。漫画好きの漫画好きな人のためだけのキュレーションは奥行きを増すが、他方で入口を狭める。

※酔っ払っているので何が言いたいのかわからない文章です。ゴメンなさい(笑)。

【武富展13】 ところで、一番面白かったのは入口を開けてすぐのポスター。そこから奥に進まず、ちょっと屈んでみる。そして視点を右に。ポスター右の書棚のガラスに、反転したポスターが写りこみ、鈴木先生の表情がちょっと違って見える。これは意図的なのかそうじゃないのかは分からないけど、面白かった。

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以上です。12月は忙しかったし、ツイッターの140文字に併せて書き直すのが面倒で、結局書かなかったのかな。13ツイート分もあるし。そういえば、以前、真珠湾で連続ツイートしすぎたので、反省して連続はなるべくやめようと思ったんだっけ。あと、「おもちゃ箱」(という名称ではなかったと思うけど)とゲッター少女について、色々描きたかったのだけど、うまくまとめられずに諦めたんだった。いろいろ思い出しました。

この展示を見て色々刺激を受け、過去に見たスミソニアンやハワイをはじめ、日本や世界各国の博物館のことをいろいろ考え直しました。歴史学者としては、スミソニアンのエノラ・ゲイ展示問題など考えなければならない一方、震災以降、こうした展示の「できること」と「可能性」をアーカイブス問題と絡めながら考えています。

あ、そうそう。武富展を見ていて、詳しい解説パンフレットの販売があってもいいのになァ(←無茶ぶり)と思ってたのですが、『ユリイカ』2012年1月号(青土社)で武富健治特集が組まれていたのでした。このキュレーションに関わった方々の記事もあり。こういう時期的な連携って大切だなぁ、としみじみ。



というわけで、久しぶりの更新でした。もっとだらだらバカなことを書きたくて始めたブログだったはずですが、生かせてません。今後は、もっとぐだぐだで、気楽なエントリが書ければいいな。

ではまた。


【追記】
※文字だけで見づらかったので、アマゾンのアフィ追加してみた。表紙が見えると良いですね、やっぱり。本はお近くの書店や学生協などでお買い求めください。写真撮っておけばよかったなぁ……。
 
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米沢嘉博図書館イベント:創作系同人誌の半世紀 [レビュー:マンガ]

【レビュー:マンガ】

お久しぶりです。近況は、最後の方に。

今回はマンガのレビューではなく、マンガを題材としたトークイベントのお話。
先日、明治大学米沢嘉博記念図書館で行われたトークイベントのメモです。

【追記】今回のエントリはメモ的な要素が強く、あまり俺個人の価値判断や、解釈を前面に押し出してはいません。感想もあまり書いていません。その点、ご理解ください。

※基本、mixiと連動させたこっちのブログでは研究系の話は出来るだけしないつもりです。ただ、今回の内容は、ちょっと数人のお友達に向けて、話の種として公開したかったので、研究会ではありませんが、トークイベントの内容をまとめてみました。 同イベントの内容を第三者向けにバランス良くまとめたものではありません。あくまで、トニイ(ぱわふる)の個人的な関心を中心にメモした内容を、ネタとして書き出すのみです。 また、病み上がり+仕事がキツイ状況での観覧だったため、結構聞き間違いがある可能性があります。その点、ご容赦を。あくまで大意的な要約ですし、聞き漏らしたこと、うまくまとめられてない可能性が高いです。また、全体を順序立てて並べてもいません。なにかのソースにする場合は、要注意です。


イベントは2010年8月29日(日曜日)の16:30-17:30に行われました。観覧者は15名程度でしょうか。当日はコミティアというイベント(私は全く存じません)や、他にもマンガ系トークイベントがあったので、多くの人がくるのを想定はしていないようでした。

タイトルは「創作系同人誌の半世紀」。著名な創作を主体とした同人団体「作画グループ」のばばよしあきさんと、みなもと太郎さんがパネリストとして参加なされていました。

「作画グループ」は、聖悠紀さんの『超人ロック』に聖さんと並記で並んでいるのを見たことがある人もいるでしょうね。聖さんの抱える作画プロダクションだと思っている人もいるでしょうが、実は違います(ハイ、俺は昔そう思ってました!!!)。聖さんが参加している、同人団体の名前なんですね。聖さんはプロとして作品を発表しつつも、この団体で作品を発表したりしていたようです。超人ロック自体も、「作画グループ」で発表されていた?(作品を作っていた)ところがあるようです。

【追記】 あとで思い立ってしらべたのですが、アマゾンなどでは『超人ロック』の著者としては作画グループの並記はないようですね。何かで並記してあったのはハッキリと記憶にある・・・つもりなのですが、勘違いかもしれません。ご存じの方は教えてください。


少年キング版は読んでましたが、完全版がでてるんですね・・・。続編もいろいろでているようです。恥ずかしながら続編は読んでおりません。

その作画グループの代表者がばばよしあきさんです。

みなもと太郎さんは、『ホモホモ7』『風雲児たち』で著名なマンガ家さんです。独特の絵柄はファンも多く、私も高校生の時に、参加していた同人グループのお仲間さんに紹介していただき、読みました。『風雲児たち』は恥ずかしながら通しては読んでません。かなり、ばらばらに読んだ程度です。一度、通読せねば・・・。

現在は幕末編が連載されています。ギャグマンガ、みんな好きだよね? ね!


【図書館について】
米沢嘉博さんは、コミケ準備委員会の代表やコミケットの取締役を勤めた方で、編集者や、漫画や大衆文化の批評家をなさっておいででした。2006年に逝去なされ、母校であった明治大学がその蔵書を受け継ぎ、記念図書館を設営しています。

米沢さんが蒐集なさっていた貴重な文献や、多くの同人誌を蔵書することとなりました。現在は開館していますが、いまだに多くの本が整理中です。この図書館は、後に建設されるより大規模な図書館群のひとつとして接続されます。

こういった経緯で、蔵書には多くの同人誌があり、このため、同図書館は、この夏に同人誌あるいは同人活動に関するトークイベントを複数企画しました。米沢図書館らしいイベントであり、非常に有意義なシリーズとなっていますね。今回は同図書館1Fで、企画展示コーナー「同人誌の小宇宙 ─米沢コレクションを中心に─」を行っており、その関連イベントとしてトークイベントが組まれていたわけです。


【トークイベントの概要】
さてさて。今回は、同人活動の中でも、創作同人で著名であり、多くのプロの作家が在籍していました(プロ作家を排出、というとばばさんは同意しないかもしれませんね)。非常に長期にわたって活動を続け、しかも同人団体として、商業誌に作品を掲載するなどしていました。

「作画グループ」の元になったのは、ばばさんが中高生の時に作った同好会(1962年、14歳の時がはじめてとの頃)で、1965年には「作画グループ」の名称になり、回覧同人誌を発行するなどしたようです。

雑誌『COM』で、読者と雑誌をつなぐ「ぐら・こん」が始まり、日本の各地域に支部が作られると、ばばさんはここで関西支部長に。ここでの活動を通して、多くの方々(編集者やマンガ家、読者など)と交流を持ち、また「作画グループ」の活動は、COM誌上で全国まんが同人誌の優秀作に選ばれるなど評価されました。この時期に、「作画グループ」の同人も多く参加して、ぐらこん関西支部としてマンガ本『ぐるーぷ1』を出版したのでした。

今回の話は、「作画グループ」創世記の60-70年代の話に終止し、その同時代の人的関係に焦点を当ててお話をされていました。よって、その時代の知識がオーディエンスにも求められる結果となりました。残念ながら私は知識不足でして、あたまに「はてなマーク」を浮かべながら聞いていましたが、開場に来ていたオーディエンスのほとんどが私よりも世代が上の方で、普段からこういうイベントにいらっしゃっているようでした。皆さん顔なじみの方が多かったような印象を受けましたネ。


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さて、大枠を説明したところで、関心を持って聞いたところの抜粋です。
基本箇条書きで、バランスを取った書き方をしておりません。ご容赦を。
緑の文字がその時に取ったメモ、それ以外は私の感想です。話したそのままの言葉遣いではありません。

●藤子不二雄Aの『マンガ道』に対して、みなもと太郎の『マンガ道』というのも、マンガ史としてあったら面白いだろう(みなみと太郎)。

→この手のマンガ史を語る際に、ときわ荘に意識が集中している事への問題提起。ときわ荘以外にも、その後のマンガへと連なる活動は沢山あったし、みなもと太郎さんの周りにも、そうしたマンガ家同士の人の繋がりがあったということ。これは是非、作品として読みたいですね。

→そういえば、近年、辰巳ヨシヒロの『劇画漂流』や、時代は下りますが小林まことの『青春少年マガジン 1978~1983』のような、ときわ荘以外のマンガ家たちの伝記漫画が読めるようになりました。ときわ荘以外の全国的な動きが多層的に、他地域的に見渡せるようになれば、これはとても良いことですね!

●規制のない同人活動というものが大切(ばばよしあき)。

→プロ作家であった水島新司さんにCOMの編集者を通して出会ったときに、プロのすごさを実感したという流れでお話になっていました。関連づけて話をしたわけではなく、ふと思い出して話したという感じでした。商業誌や編集のいないところで、制約なくマンガを書き上げるという行為の大切さを言っておりました。

同様なニュアンスのお話はこの後しばしば登場し、ばばさんがひとつ大切なこととして捉えていることがよく分かりました。

※なお、このときに、私の隣に座っているのがマンガ家の宮脇心太郎さんであることがわかりました。「作画グループ」の「回覧」同人誌が観覧席を回ったときには、じっくりとご覧になっておいででした。

●ぐら・こんの活動は、みんなで何かをつくるようなものであった(ばばよしあき)。

→関西支部で『ぐるーぷ1』を出版したことは大きな経験であったことが語られました。そのポジティブな面、ネガティブな面はいろいろあったようですが。出版社にお願いして、カバー付きのマンガ本を印刷し、各書店にお願いして、本を置いてもらうなどしたようです。出版にかかった費用は、当時で25万円。3000部作成、1000部が返品だったそうです。

→当時の一般的な社会人の収入からしても高いものでしたが、ここでの経験はお金に換えられないものであったとおっしゃっておりました。

●アマチュアの「作画グループ」が商業誌に挑戦することは、アマチュアだからこそ妥協できないものであった。(ばばよしあき)

→70年代になると、作画グループが共作でマンガを商業誌で発表する機会が生まれました。編集者とのやりとりのなかで、締切などとは無縁の状況で、時間をかけて作品作りを行えたとのこと。また、それを受け入れる土壌もあったようです。

●みなもと太郎は、50歳を過ぎてコミケに参加。「同人」誌ではなく「個人」誌としての参加。

→同人誌と個人誌の違いについての言及。コミケの参加は必ずしも「同人活動」ばかりではない。本筋の話ではないので、簡単に触れただけでしたが、コミケを表面部分でしか知らない私のような人間にはこういうコメントこそ、大切に感じます。

→同人であるからこそのコミケ、という感覚がどこかにあり、それが性善説のようにコミケ概念で中心部においちゃっている人もいるのではないでしょうか。しかーし、50過ぎてからコミケ参加っていいですね! 俺もいまだに参加どころか、いったこともありません。50歳になったら、いってみようかしら?

→さらに勝手な個人的コメント。あと10年20年したら、60-70代でのコミケ参加もどんどん増えそうですね・・・。そういうコミケって、実はすごく見てみたいし、魅力的な気がします。ただ、体力に要注意・・・。点滴を打ちながら会場をさまよう・・・『老人Z』がでてくるかもよー?

●作画グループの中には多くのプロ作家が居たので、同人誌をだす場合には商業誌では読めない+αを出すことを意識した(ばばよしあき)。

→プロの作品は商業誌で、しかも安く読める。これに対して、「作画グループ」の同人誌は同じプロ作家が参加していても、値段は高い。ゆえに、それだけの価値観を出していきたい、という意識があるようです。

●最近のマンガにうまいものが少ない(ばばよしあき)。

→20年ほど前から、ヘタウマという表現がでてきたのと時期を同じくして、編集の力がなくなってきたのではないか、というお話から。少しフォロー気味でしたが、それがゆえに最近のマンガはうまくないというニュアンスのことを話してました。

→ここで言う、うまくないというのは、綺麗で緻密な絵を描けないと言うことではなく、ストーリーやコマ割りなどで見せる……読者を唸らせる巧いマンガが描けてない、ということでしょうね。

→例としてですが、例えばヒカルの碁からデスノートにかけての小畑健を取り上げて、緻密化していく「絵」に対して編集の介入が必要だったのではないか、というニュアンスのお話もなさっていました。私も確かに一枚絵としてのうまさ、ノリ切った感じは実感しましたが、他方でマンガ表現として、主題を邪魔してしまう側面もあったんじゃないかなあ、と感じています。俺も、小学生の頃かな、小畑さんの『サイボーグGちゃん』の絵柄にはまっていたので、ちょっと偏見かもしれませんね。とまれ、現代マンガでは編集の力が弱くなっているのではないか、というひとつの例ですね。

●書店で同人誌が置かれるようになって来ているが、書店にある以上、同人誌は商業誌と区別されるべきではない(ばばよしあき)。

→最近の書店の中には、「同人誌コーナー」を設置して、同人誌を売ることをひとつの販売手法としているところもある。ある書店から、「作画グループ」の同人誌をおいて欲しいということを言われたこともあるが、質の高いものが出来た場合には良いと返事をした。実際にその後に質の良い本が出来たときには、出版物として書店に並べてもらった、という話。ここには、同人誌として書店に本を置いてもらうのではなく、ひとつの出版物として取り扱って欲しいという、ばばさんの意識が読み取れました。

●商業誌に対して意見を言えること(ばばよしあき)。

→すみません、このあたりうっかりメモが汚くて読めません(笑)。ちょっと別のことを考えて聞いていたこともありますが・・・。同人誌だから商業誌とは違う手法でマンガを書いたり発表できるというお話だったと思います。

●作家と会うことの大切さ(ばばよしあき)。

→ばばさんも、みなもとさんも、この部分をかなり大切にされているようです。プロ、同人を問わず、多くのマンガ家や編集者などに会うこと、人的つながりを広げる事で、得た多くの知識経験があるとおっしゃっておりました。

→例えば、COM編集者の案内で、連載を抱えている手塚治虫の仕事場に行き、編集者四人がカリカリしながら待っている横で、手塚さんの書庫を案内してもらったこと。そこで、世間には知られていない?『宝島』のバージョンを目にしたことなど。

→他の人の蔵書に触れるというのはすごく大切だと俺も思います。研究者の私は、学部、大学院時代の恩師や、たくさんの先生の研究室の本棚をみることで、いろんな発見をしています。どの先生の部屋にいっても新たな発見があります・・・。ばばさんも、そういう知的興奮を、手塚さんの部屋をみて、思ったのでしょう。

→閑話休題。編集者のおかげで見ることができた手塚さんの書庫。同人サークル、マンガ家の知り合いなど通して得た知己。そういうものが折り重なって、マンガ史を生み出している。そういう集積をもっともっと語りたい、そうばばさんも、みなもとさんも、そう考えていらっしゃるようでした。

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【質疑】
さて、質疑の時間があったので、図々しく、もいくつか質問させてもらいました。自分が尋ねたもののみ、掲載します。

ばばさんへの質問
Q:ファンの集いとしての共同体的な同人活動ではなく、漫画作品を発表していくという創作同人活動について。共同作業として作品を作るときに、全国規模の同人であるがゆえに、世代格差や地域格差というものをまとめたりしていくようなことをなさったでしょうか?(大意) 

(なお、これは、作画グループの『銀河を継ぐ者』(講談社、フレンドKC、1981)を参考にした質問でしたが、うまく説明ができずに、ばばさんは、作画グループの同人活動での個々人の作品の提出の際にどうかかわったかと質問を受け取ったようです。)

A:作画グループで作品を出すときに、何かしらの規制や制限などは設けなかった。とにかく、よい作品を書き上げてもらい、よい作品を載せるということをした。(大意)

みなもと太郎さんへの質問。
Q:『風雲児たち』を描くときに、例えば(1)歴史的な事実を調査して、それをマンガに構成する、(2)漫画を描くことで歴史的な事を知ってもらいたい、といような場合では意識としてはどちらを最優先させましたか? また、作画グループでの活動がこうした作品作りに影響したりしましたか?

A:どちらかといえば(2)であるが、ギャグを読んでもらいたくて描いている。調べて描いたこと(人物など)を、読者が読んで、始めてこういう歴史的事実があったことを知りました、という反応をもらうこともあるが、それは少し困った(照笑)。(大意)

実はこの質問は、回答を予想したうえでの質問で、お答えもほぼ予想通りとなりました。歴史学者としてここ4年マンガ言及に取り組む中で、いろいろ考えたことをシンプルですがこの質問に盛り込みました。この話は、いつか発展させて、歴史小説と歴史の関係の話として描いてみたいですね。

作画グループについての活動などでは、実際にばばさんに出会ったことなど、人の繋がりの大切さを繰り返されていました。どちらの回答にしても、みなもとさんの人柄が表れるような、やわらかな回答でした。私、惚れてしまいそうでしたよ(笑)。

※この後、雑誌『WINS』と作画グループの関係についてもお話なさっておいででしたが、他の方の質問からでしたし、これは俺の知識ではまとめきれません。簡単にだけお話していましたが、こうしたトークイベントでしか聞けない、とても大切なお話でした。来ていた人には、一番面白い話だったかと思います。でも、略(笑)。

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さて、いつも通り長くなっちゃいましたね。
メモのつもりでも、誤解がないように気をつけると長くなるなあ。
あくまで、参考までに、読んでみてください。


【近況報告】
都内の私立大学と、北陸の大学で非常勤講師をしています。

様々な問題提起をしながら学生に考えてもらったり、課題を出しすぎて採点でキツイ目にあったり、風邪を引いたが課題の提出日にしていたので38度の熱をだしながらも講義をしたり、充実した毎日です! ほんと! 

相変わらず、のほほんと、過ごしています。でも、専任の道は遠いですね(笑)、はい。

そんなこんなで、ではでは!
 
 
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2009年に読んだマンガをGWに再読! [レビュー:マンガ]

マンガの話

※酔っぱらって書いたのでおかしいところが、いっぱいでしたので、書き直しましたー。ハハハ。

ゴールデンウィークです。世間一般はお休みですが、研究者なんてやってると、休みなんてなきがごとし。溜まってた提出書類をここぞとばかりに、ダダダダッと書きまくり、論文の抜粋を知り合いの研究者に送り、より良い条件を求めて公募への応募書類を書いたり、新しい論文をまとめたり、後輩のためにしなくても良い仕事をやってみたり、まー、いろんなことをやってます。

で、疲れます(笑)。こういう時の息抜きは、DVDをみるか、マンガを読むか、小説を読むか、ココアを飲んでぼへぇ~~っとするかです。で、細切れに、未見だった映画やオペラのDVDを見たり、2009年に買って読んだマンガを再読したりしてました。

2009年度はずっと忙しかったのですが、忙しければ忙しいほどチュッパチャップスが欲しくなるもので、ここ10年間のうちでは意外とマンガを読みました。と、今回アップするまでに草稿として書いていたブログ原稿ではそう思ってたのですが、この休みのうちに、本棚を作って本の整理をしてたら、意外とそうでもないことに気づきました。

(ミクシィ繋がりの人はご存じでしょうが。部屋が本で埋まってとんでもないことになっておりました。で、3月からDVD棚を新しいカラーボックスに入れ替えたり、押し入れの改造したり、いらない本や書類を整理したりしてたのが一段落して、やっとマンガの棚の整理に取りかれたわけです。(※研究書は全然整理してません。ハハ))

自分ではそんなつもりはなかったのですが、2008年も結構マンガを読んでたんですねー。どう考えても2008年に買ったと思われるマンガがドバッと出てきました。タイトルを見ているうちに、読んだ記憶も蘇ってきましたが、すっぽりと抜け落ちてました・・・。まぁ、きっと、忙しかったか、つまんなかったんでしょうね(笑)。よつばと、もやしもん、ワンピースなど、読者層の多い、いい表現ではありませんが、メインストリームのマンガが面白かった一方で、オムニバス(短編マンガ)に面白いマンガがなかった・・・ので、勝手に思い込んでたんでしょうね。トニイさんは、オムニバスが結構すきだったりします。ああ、ライドバックは結構楽しんで読んでたかな・・・。

2008年出版のマンガを入れてある段ボールに業田良家のマンガや手塚治虫がいっぱい入ってました。たしかに、そのころガーっと貪ったような・・・。意外とマンガよんでるんだなー、とちょっと反省[雨]

さすがに学部生の頃みたいに、マンガ強化月間とかいって、数万円をもって古書店に行って300冊のマンガを買って読みまくったり、みたいな無茶はできなくなりましたが。意外といまだに漫画は好きなようです。


で、今回は①マンガを巡る言説と、②お勧めマンガの話。

と、これまたブログ準備稿ではそう思ったんだけど、よく考えたら①については元となる研究者の許諾がいるなーと思い、ナシに。でも簡単に。

一般的な人のイメージするマンガ研究、マンガを説明する言説ってどんなもんでしょーか?

大きく分けると二つだと思うんですよね。

①、日本あるいは世界経済におけるマンガの価値

②、マンガのシステムを理解する上での、「コマ割り」を中心とする説明

こんな感じじゃないでしょうか? ①は経済論的意味づけ、あるいは経済的価値解釈で、マーケティングの問題ですね。 ②は、文法としてのマンガのお話。いったいマンガってなんぞや、ということを説明するときに使われるものでしょう。小説とも、アニメとも、映像ともちがうマンガってのは、どんなものなのか・・・。

メディアで社会学者がマンガにふれると、大抵この二つでしょうね。①はここ10年の経済不況の中で、マンガはそれに左右されない流通商品として強さがあるのではないかと考えられたことから(これも現在では異論があるようです)、②はまぁ、呉智英さんはじめとする80-90年代のマンガ解釈の一つの方向性を捉えた結果、という感じでしょうか(コマについては、秋田さんの著作もありますし、竹熊さんも強い関心を示されていますね。実証的な教育の脈絡でもなされているようです)。

ただ、今のマンガ研究は、この二つに収斂されるほど、狭くはありません。

心理学的な子供のマンガ受容を含む、マンガを読む読者についての「オーディエンス研究」、マンガ表現によって初めてなしえる(小説とも映像表現とも違う)ストーリィを主軸とした研究、マンガの著作権や権利、表現のありようからマンガを捉える「法的研究」、マンガを読む文法や手順からマンガを探る研究(自由自在にページを行き来することができる、ということですね)、学習マンガのように「教育の手段としてのマンガ研究」、コマ内の構成要素(フィギュアの配置など)を検討する「記号学的研究」(徽章学、意味論?なども含むのでしょうか。少女マンガ特有の「目の中の星」を扱うのもこの範疇ですかね?)、一つのマンガの一国内的認知と世界的認知の差違についての研究(間文化性?)などなど、枚挙にいとまがありません。

ちなみに私は、マンガを一次資料としてマンガ表象内にふくまれる時代性や当時の大衆意識を読み解く、というスタイルの研究です。意外とやってる人は少ないですね。派手さの全くない研究です。

また、これは研究ではありませんが、ある評論家は、漫画家が書いた原稿に編集や印刷業者の手によってセリフの写植が貼られていく過程によって、原稿が盛り上がっていくことや、出版社によって写植が張り替えられることについての、作業過程的な問題を取り上げた人もいます(こういうのには、原稿を巡る解釈が入るでしょうか?)


※上記の写植の話は、この本のなかで大谷さんが書いていらっしゃいます。正直言うと、文章がこなれておらず、読者を意識しない独りよがりの文章で、私は好きではありません。しかし、それを補ってあまりある面白い小論が西島さんのマンガと交互に織りなされていて、なかなか読み応えがあります。どうしても西島さんのマンガがメインと取られてしまうかもしれませんが、大谷さんの解説も(編集の手が入ってないのか、すっごいとがってたり、ゲンナリすることもありますが)共著者として堂々としたものだと思います。

こうしたマンガの全体像を、普通の読者はあまりにも知らなすぎるのではないか、最近そう思ってます。一度に知ろうと思うとパニックになること請け合いですが(笑)、一つずつ知っていくのは読みの問題にしても、マンガ環境の解釈にしても、有益だなあ、と私は思ってます。

あれ、長くなっちゃうな。取りあえず、一つ目はこの辺で切り上げ。

───

で、読んだマンガの話。

2009年は人生の中でも一・二を数えるほど忙しい時期でした。毎年2-3月は小劇団を中心に演劇を5-6団体は観劇するのですが、昨年は1つだけ。前半はマンガも小説もアニメもほとんど見てません。何をやってたのかというと、一歩進んで二歩下がり、三歩進んで二歩戻ってたのです。

・・・本職で256転512倒してたのですね。

※誤解されるといけないので書いておきますが、トニイさんは、マンガ研究が主軸ではございません。別分野の研究者なのですが、学際研究を進めていくなかで、一つの大きなテーマとしてやっております。いつの間にか、そのテーマ研究が、本来の専門研究を揺さぶるほど大きくなってくれたのは嬉しいことですが。

ただ、10月になると博論が一段落して、出すかどうかでギリギリ悩んでいるところで作業量が減り、比較的余裕が出てきたときに、息抜きを兼ねて、マンガとアニメを、一気にだだだだっと鑑賞したのですね。これはある意味正解で、案の定、自分の研究以外の作業が12月から怒濤のように押し寄せ、それが今年の3月まで続く結果になり・・・この時の息抜きが無ければ、きっと私、死んでました。時間があるときに、うまく時間を使いこなさないとダメですね。ほんと。

その話はさておき、10月から1月の頭にかけて、漫画で50冊くらい、アニメで20作品くらいを見ました。さすがに大学生の頃のように、1ヶ月や2ヶ月で漫画を数百冊読んじゃうような無理はできませんね。マンガ好きアニメ好きの人からすると少ないんだろうけど、ホント忙しいんですってば。

冒頭で書いたように、トニイは、大学生の頃に数万を手に、古本屋に駆け込み、漫画を100冊単位で買うようなことをやってました。もちろん、玉石混淆。すげぇ面白い漫画も、くっだらなーい漫画もいっぱいありました。でも、そのくらい読むと、なんとなく体系的なマンガ観ってのがパッと開けるんですね。もちろん、錯覚です(笑)。だけど、マップが頭の中に浮かんでくるわけです。そうすると、「マンガを読む文法」力が身につき、それこそ一作一作ごとに異なる沢山の文法を持つマンガ諸作品を、容易に読める感覚がつくんです。簡単に言うと、ノって読める。

これは映画でも、演劇でも、小説でも、そうだと思います。舌が肥える、そういう感覚を実感することができる。そういう楽しみ方ができた大学生時代というのはとても幸せ。

また脱線しちゃった(笑)。で、大学生の頃の読み方ってのは、臆病になったのか出来なくなってまして、石橋をそーっと渡るような読み方をします。他の人の紹介や、書評を参考にして読むようになりました。他の人のお薦めだから、どんなに読んでも外すってことがない・・・。以前はそう思ってました。先ほど玉石混淆っていいましたけど、石でも、つまらぁん!と思ったことって、意外と少ない気がします。

ところが今回そうして楽しそうなマンガを中心に選んだのですが、半分くらい面白くなかったんですね。半分くらいは目茶苦茶面白かった。俺、マンガ(作品)の文法を読み解くが力がなくなったんじゃないだろうか・・・と思いました。でも、面白くない本は何度読んでも面白いと感じなかった。なんで、あの人はこの本を薦めたんだろう? そう思うくらいハマらなかったんです。

ちょっと「もやもや」してたのですが、ある研究会で、社会学者でマンガ・アニメに造詣の深い小山昌宏さんが、われわれ(年配)の世代は少しずつマンガを読み、読む工夫をし、マンガを読むリテラシーを獲得したけれど、最近のマンガを読む人にはこのリテラシーを獲得する過程がない(大意)というお話をされていました。これは逆に、編集者にも作家にも、そうした可能性はあるし、例え、編集者も作家もリテラシーを持っていたとしても、読者のリテラシーに併せてマンガを構成する、というのはありそうな話だと思いました。(逆にいうと、私が現代マンガのリテラシー(ないしはその環境)を知らないのではないか、と思い至りました。)

結論としては、そんな現代マンガのリテラシーはいらん

だって、つまんないんだもん。(特に「萌え」などの記号に依存しすぎた世紀転換期から現在までのマンガが)

※追記:ゼロ年代という言い方があるんじゃないか、とある人に言われましたが、ゼロ年代という表現をここでしていいのかどうかというと、ちょっとためらいがあります。ゼロ年代にはそこから派生する、あるいはそこへと収斂する脈絡があると思うのですが、その脈絡に寄せた話じゃないので、つかっていません。

「記号」と「自動」をネガティブに配置し、そして感情や経験の欠落を前提とした、ソックスの高さすらもないハードルを前にしたマンガに何を期待できるというのか(これは私の持ってる感想)。そういう思いが、強く残っています。

さて、そういう風にして読んだマンガの中で、ちょっとがっかりだったのは、このタイトル。

・青山景(漫画)、花形怜(シナリオ)『チャイナガール』(小学館、2009年)
・掘骨砕十三『クロとマルコ』(秋田書店、2009年)
・中村珍『ちんまん 中村珍短篇集』(日本文芸社、2009年)
・竹嶌波『素っ頓狂な花』(小学館、イッキコミックス、2009年)

えっ? と思う向きも多いでしょうね。これらはみんな評価され、ファンもいる漫画です。これらの漫画を好きだという人がいるのは、非常によく分かります

だけど、俺は個人的な嗜好での拒否反応と言うよりは、単に読んで何も心に響かなかった、眉がぴくりともせず、客観的に見ても面白いと言えない、と思ったのです。・・・もっと簡単にいいましょう。退屈だったんです。

チャイナガールはマンガ家の工夫をよく感じたのですが、そう思うことが先に立ち、感情移入できませんでした。そこが浮いて見えてしまったのには、シナリオのつまらなさ(平凡さ)はさておき、工夫されたコマ割りや構成を際立たせるためか、逆に明らかに捨てゴマや記号的な表現もまた多くて、楽しいお話を読ませよう、という熱意を感じなかったことにあります。機械的に描いている感じがしてしまったのですね。

クロとマルコは論外です。ここまでつまんないと思った漫画はここ10年で、5冊目くらいです。絵柄は大好きな感じですね。きっと一枚絵のイラストだとファンになってたと思います。面白いアイデアや表現も結構あります。しかし、それが集まったとき、これって漫画になってますかね?と正直に思いました。作者は手のひらで自分の世界を揺るがしただけで満足してしまった。感情も、伝えたいことも、伝えたくないことも、テレも、なーんにもない。オモチャで遊びたくて、遊びました。ああ、つかれた。で終わっている漫画です。オモチャで遊んだぜぃ。いやぁ、面白かったあぁぁ! ってして下さいよ! 

ちんまんは、記号の寄せ集めです。多分、この短篇集を批判する人には、他の漫画のプロットや絵的な記号の寄せ集めだ、ということを言う人もいるでしょう。絵柄、ストーリー、ネタ、そうだと思います。でも、だから悪いというわけでもありません。集めてそれで終わった、というところが問題です。それから、コマの見せ方にこだわりすぎだという気もします。抑えた絵柄が良い意味での世界観を示している一方で、それらの絵柄を構成するコマ割りの一群が、読者との間に溝を作ってると思います。

彫り師の話なんて、すっごく面白い題材なのに、入れ墨にまつわる業界や職業的特徴の話にせず、どの業種でも通じるような一般的な話にしたおかげで分かりやすい(受け入れやすい)話になった一方、その独自性を失っています。彫り師じゃなくて豆腐職人にしても同じ話できるでしょ、と俺は思ってしまったわけですね。普遍化自体の面白さはあるけど、それは沢山の人が描いてきた道だろうと思います。

素っ頓狂な花は、怒られるなぁ。好きな人多いだろうなあ。これは俺の読み方の問題があるのかもしれませんが、頭にヤマダ紫や近藤ようこのようなつもりで読んでしまいました。それで正しいんじゃないの、という人もいるのでしょうけど、これ、裏表紙にある惹句「女の子たちのリアル」であるとは思いませんでした。この惹句だけカギ括弧付きなのが一つのポイントだとは思うのですが、本当は、「ウソを描こうとして上滑りした・・・」のではないかと見ています。この本だけ、上の三冊と違って、そうだとは言い切れません。ここは素直にご免なさい(笑)。はっきり言うと、まんが内の世界と読者である自分との間に距離がとれなかったんですね。

上記のマンガを読んでいて思ったのは好きな要素も多い一方、「マンガ」として好きになれなかった、ということです。


逆に面白かったのは以下の本。面白かったのを書いてもつまんないだろうけど(笑)。

大澄剛『家族ランドマーク』(小学館、イッキコミックス、2008年)
山本健太郎『ファイトじじいクラブ』(エンターブレイン、2009年)
岡崎二郎『宇宙家族ノベヤマ』1-2(小学館、2007,2009年)
市川春子『虫と歌』(講談社、2009年) 

 

 

長くなるのもあれなので、虫と歌についてだけ。

この短編はどれも、話の中盤くらいで、がらっと世界観を変える仕掛けがあります。読者の認知が変わるわけですが、その認識の変化が、世界を形作り、物語ります。単なる転ではなく、物語世界の展開と一緒に、読者の視野が広がる感覚があります。それを短篇集の形で連作で読むと、とても心地が良かった。お勧めです。

ちなみに、絵柄は好きじゃないです(笑)。そういえばノベヤマもそんなに好きな絵柄じゃないのに、ぐいぐい引き込まれて面白かったなあ。

ここにあげたのを中心として2009年に読んだマンガを、このGWに再読しまくったのですが、感想は変わりませんでした。私の「読み」・・・リテラシーの「くせ」もきっとあるのだと思いますが、記号的表現は、道具であって、メインのお楽しみじゃないないんだな、とはっきりと思いました。記号的表現がすなわち悪であるとか、そんなつまんないことはいいません。

記号がそのまま読者の教養であること、読者の記憶や経験を引き寄せることでマンガの読みをより能動的で楽しいものにすることもあります。しかし、それが主体となったときには、受動的でその他の表現手法を排除し、読み自体を作業にしてしまう・・・そのことによってマンガをつまらなくすることもあるのではないかなぁ、と思ったのでした。

と、そんなGW前半でございました。

新しく買って読んだマンガは「1-2メートルをかける少女」だけかなぁ。こういうマンガに対応できなくなってる(おっさん化してる)自分を感じました。小学生はこれを読んで楽しいんだろうか? きっと楽しいんでしょうね、読んでいるときは。このマンガの面白いところは、各主人公が手に入れた超能力は「きっかけ」に過ぎない、ということ。普通は超能力のあるなしでの、過去の自分と現在の自分のずれとか、周りへの意識への変化とか、センス・オブ・ワンダーを描いちゃうものですが、そういうのは一切なしで、前後で変わらない等身大の主人公がいるわけです。多分、超能力がなくても、この主人公は同じ結末を迎えたりするのでしょう。そこが逆に小学生読者の共感を得たりもするのではないかと思ったりしました。おっさん(=私)は、ニコニコ笑って見守るだけです。

酔っぱらいながらだと、ブログ書きやすいなあ。まぁ、これも錯覚だ。
さて、酒が残っているうちに、履歴書書こう(笑)。

それではまた。

まるっ


※朝起きて、「うへ、おかしいところいっぱいだぁ」と思って一部書き直しました。

※さらーに、書き直しました。酔ってブログの書くってダメですね(笑)。
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H・P・ラヴクラフトの想い出 [レビュー:マンガ]

【レビュー】マンガ


久々の更新です。今回はマンガの話ではないのですが、他のカテゴリも用意してないのでこちらで。

さて、今日はアメリカ大使館の施設である東京アメリカンセンター主催の現代アメリカ講座に参加してきました。
大使館の下部組織(正確には国務省下)である東京アメリカンセンターは、日本でのアメリカ理解を促進する目的で設置された広報組織です。この組織はリファレンス・センター(調査施設)を持ち、日本国内のアメリカのリサーチャー(調べ物をする人、研究者)に様々な便宜を図っています。

さて、その活動の一旦。アメリカ理解を促す講座もすでに54回目です。私は過去二回参加していますが、さすがアメリカというか、なかなかアグレッシブな内容のものも多く、過去にはアメリカの政策自体を批判する草の根活動家の様子を紹介するなど、ひっじょーに興味深く講演を見たこともあります。

で、今回のテーマは『日米の怪談と幻想小説』

フライヤーではエドガー・アランポーやH・P・ラヴクラフトが紹介されており、マンガ好き、ホラー好きには「おお!」と思わせる内容です。

長々と書いてもしょうがないので、さくっと。通訳音声を使わずに英語で聞いたけど、まちがってたら、ごめん(笑)。

講座を担当したのは大使館の情報資料担当官マイケル・ハフ氏。

まず彼は、SF、ファンタジー、ミステリなどの用語を簡単に説明しつつ、その中で、ホラーを一つの大衆文化に位置づけます。ホラーの魅力(定義)は、不可知さ、不可解さに触れる面白さにあり、過去性にも影響されるものであり、そして美しい女性を際立たせる描写に富んでいるところにある・・・という、ひっじょーにわかりやすい説明。

パワーポイント(プレゼンテーション用PCソフト)を使いながらの簡潔な説明は、オーディエンスの関心を引きつけるのに十分。各作家の顔写真も紹介されていましたが、いつもラヴクラフトの顔を見て思うのは、映画『帝都物語』で加藤役をやった嶋田久作そっくりだなーということです。嶋田本人もラヴクラフトが好きなそうで。

そういえば、嶋田久作がその名前を取った夢野九作にも似ているそうな。
で、その夢野九作も今回紹介されておりました。

アメリカの作家として、ポー(余談ですが、エドガー・アラン・ポーのハフ氏の発音が、『ドラゴンボール』に聞こえてなりませんでした。なんてこったい!)ラヴクラフト、ラフカディオ・ハーンで、ホラーの「場所」が、民間伝承との関係の中で形作られ、大衆文化となっていく系譜にある・・・というニュアンスの話をされていました。きっちりとした感じではありませんでしたが。

日本側からは、小泉八雲が被りますが、それ以外には、江戸川乱歩、泉鏡花、夢野九作、栗本薫(!)でした。じつは、泉の「高野聖」も夢野の「ドグラマグラ」も翻訳され、アメリカで読まれているとのこと。そして、最近では栗本薫も翻訳され、ヤングアダルトに人気があるのだとか。

そう、大衆文化としてのホラーは、日本はアメリカの影響を受けつつ、ラヴクラフトの言説を利用したりしながら、融合し、またそれが栗本薫の作品のような形で、アメリカに輸出されている・・・というわけです。

アメリカの図書館の統計では、ここ最近の若者の貸し出しでは、ヴァンパイアものがイチバンの人気であり、ヤングアダルトの中では、ホラーが安定した人気があることが紹介されていました。

こうしたなかで、米図書館では、本を貸し出すだけではなく、ライブラリアン(図書館員)が学校などに出向いたり、図書館で企画を立てたりして、朗読会を開いているそうな。これは日本では中々ないことですね(大学院の後輩がドイツの絵本などを翻訳して読んだりしている、ということを言っていましたので、まったくないわけでもないのですが、大規模図書館に限られる気もします)

そういえば、14年くらい前にハワイに語学留学したときに、ホームステイした家族のママさんが、毎週太鼓の勉強会と、バーンズ&ノーブル(アメリカの有名な書店グループ)で開催される朗読会に行っていました。アメリカでは朗読会は、日本よりも馴染まれているみたい。日曜礼拝の習慣があるお国柄ですから、聖書の勉強会をはじめとした朗読会はふんだんにあるようですネ。

ライブラリアンは、学校などに出向いて、子供たちに朗読します。その中には時には、民間伝承やホラーも含まれるわけです。ホラーは身近なお楽しみの物語なのです。

最後に、ハフ氏自らが、英語の翻訳で、『怪談』の一つの物語「雪女」を朗読して下さいました。「雪女」自体は日本人にとって馴染みのある物語ですが、ハフ氏の語りは、抑揚が聞いていて、楽しく聞けました。やっぱり、ライブで語りを聞くというのはいいものです。筒井康隆が朗読に一時期熱心だったこと(口述スタイルのテープ出版などありましたね)がよく分かるほど、楽しいものでした。


終了後のフロアからの質問では、クリスタニティ(キリスト教性)とのホラーの関係などの示唆などが飛んでいて結構刺激を受けました。個人的にはフランスの幻想小説がアメリカの幻想小説ほど日本で広範囲に認知されなかったのは何故なんだろう、ゴシック・ホラーの面白さとはどこにあるのだろう、ということを聞きたかったのですが、あえなく時間切れでした。


────
さて、ここから、普段語り(笑)。

やっぱ、子供の頃に本を読む糞ガキってのは、ホラーのエロが好きなんです。訂正。エロスが好きなんです(笑)。そして、ホラーの中の不可知性や、不条理に触れることで、思考の幅を広げて言っている、という気がしてなりません。

で、今でもよく思い出すんですが、中学生のガキの頃、バスで2時間半も離れたところに住んでいる大学生のおにーさんのところに遊びにいっていまいした。今考えるとすげー図々しいのですが。

彼はホラー映画大好きで、ガキの俺に「死霊のはらわた」を見せようとするとんでもない人でした(笑)。当時はTTRPG(サイコロで遊ぶロールプレイングゲーム)が流行っていた時期で、そのおにーさんの主導で、いろいろ遊ばせてもらいました。

その中で、ホラーのゲームで、ラヴクラフトの作品を原作とする「クトゥルフの叫び声」を何度かプレイしました。

ゲームですが、大抵プレイヤーが発狂して終わります
なんてこったい!

子供の頃の私は、その「美学」が上手く理解できませんでした。

えー、不条理だああああああああ!

そう思ってました(笑)。今だとその楽しさがわかりますが、その不条理が理解できずに悩んでいる俺をみて、実はそのおにーさんは楽しんでいたのではないかと思います。それが『風のクロノア』のゲームデザイナーで著名なあらゐよしひこさんでした。酷い人です(笑)。

────
子供の頃によんだラヴクラフトは、修飾語の魔力でした。そして、不可解な名詞の連続に、少年の俺は酩酊したりもしたものです。さすがに、這いうねったりはしませんでしたが。

ハフ氏は、解説の最中に、ラヴクラフトの人種(差別)主義者の側面を提示しました。

これは意外な気がしました。そういう描写の記憶がないんですね。10-15歳ころに基本的な物は読み、浪人生の頃に派生作品や他の短編なども読んでいましたから、物心ついているときに触れていたはずで、でも人種差別的な描写の記憶はありません。

これは、単に物語のそそる部分が不可知さにばかり向かい、その他の描写を見落としていたのか、それとも子供の頃の私が知らずのうちに人種差別的な物語を受け入れていたのかもしれません。

ラヴクラフトが執筆していた当時は、優生学や人種主義観に基づいた社会進化論が一通り流布しており、また暗黒大陸アフリカや南米の未開の部族が(コンラッドを引き出すまでもなく)、世界の不思議として、そして米国内の人種差別とも結びつきながら、不可知なものとして認知されていた時代です。もちろん、黄色人種とて、怪しげな存在として今よりもずっとずっと強く認知されていた時代でした。

この点について、ちょっと再読したいなー、という気にもなりました。
クリスタニティと人種主義の観点を頭の隅において読んだら、どう感じるでしょうね。

────
で、また話は飛ぶのですが、マンガ家の藤子不二雄Aさんが作品の小道具につかったり、佐野史郎が主演でドラマ化したり、荒俣や栗本薫にも影響を与えたラヴクラフトではありますが(マンガ家の矢野健太郎さんは、ずばりその系譜の作品を書いたりもしています)、日本での研究は進んでいない気がします。

僅かにユリイカのなかで幾つかの記事がありますが、研究論文となるとさらに数本。しかも、それらの多くは、英文学者の金井公平さんによって書かれたものです(私も一つしかまだ読んでいません)。最近になって社会学の領域でも書かれたようですが、その程度です。

これはなんでなんだろう・・・。あ、古きものどもが、裏から手を回して・・・・・・・。


────
ってなことで、俺のラヴクラフトの想い出は、

へんなおにーさんの不適な笑み、だったりします。

作品で好きなのは、インスマスと思いきや、「宇宙からの色」と、「狂気の山脈にて」の二作品でした。鼠の話も何となく記憶にあるんだけど、あれは本人ではなかったっけかなぁ。さすがに覚えていません。というか、よく俺は二〇年前に読んだ小説のタイトル覚えてるなあ・・・といまちょっと吃驚しました。


講座の感想としては、
高野聖、ヴァンパイア、雪女・・・そうエロですね。もうエロエロしていて良いんじゃないでしょうか。 もっと子供が読むべきです! あと、不条理を感じて、悶々とするといいですね。はい。

もっとセンシティブな、惑いの物語を子供も大人も触れていける。そういう文芸に浸れる社会であるといいですね。そんなことを思いました。


てなことで、とりとめもなく。

まるっ!
  
 
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マンガのレビュー:『もやしもん』など [レビュー:マンガ]

【レビュー:マンガ】もやしもんなど

えー、トニイ@ぱわふるです。
マンガの雑文エントリを始めます。

基本マンガは好き・・・ですね。小学生の頃は体も弱く(ごほごほ)、寝たきりだったので(意外とホント)、入院している間に、週刊少年誌定番四誌に加え、少年キングや、少年キャプテンなどを読んでました。東京あたりなら普通に手に入るマンガ雑誌も田舎(岩手)では書店では却って見かけず、何故かキングは入院先の売店でしか売ってませんでした(笑)。

小学生のときの私が好きなマンガ・・・は、以下のみっつ。

魔少年BT
古祭
ネットワーク戦士

一つ目はジョジョの奇妙な冒険で著名な荒木飛呂彦さんの初期のマンガ。これを週刊少年ジャンプで読んだときの衝撃は忘れられません。クラスのマンガ好きの間でも、うおおおお、これ面白い!って、話題になりました。突然現れた、不思議な転校生──それまでのクラスメートが持つ価値観を壊す存在──は、当時の小学生の男の子にとって、潜在的に求める「センス・オブ・ワンダーの共時的感覚を揺り起こす何か」を覚えさせたのではないかと思います。ちなみに、正しいタイトルは、魔少年ビーティーです。記憶の中では完全に「B・T」なんですよね。

古祭は、少年キングだったかなぁ・・・。とにかく点滴を打ちながら読んだのを覚えています。毎回ドキドキしながら何度も何度も読んで、次が待ち遠しかった。ちょっと不思議な女の子って、引かれますよね、小学生の頃の男の子なら。この影響で、大学生くらいまでは、何かしら楠桂さんと大林薫さんのマンガを買いまくってましたね・・・。個人的な感想ですが、古祭をこえる楠作品はないと思ってます(笑)。もちろん、現代の作品でこの絵柄が市場となる空間はないことは重々承知していますが、この作品になる不思議な焦燥感というのはまた新たに読んでみたいですね。

最後のネットワーク戦士は、矢野健太郎さんの作品。当時の私にはパソコン雑誌「テクノポリス」の、変なコナンの人、のイメージでした。蛮勇コナンの頭の上にジョイスティック?がくっついている不思議なキャラの登場するマンガでしたが・・・。そのマンガ家のホビージャンプだったかな? 何回かに分けて掲載されたマンガです。

よくある異世界ものですが、その異世界がネットワークであった・・・インターネット以前のPC通信時代のマンガですが、少年心をくすぐる冒険譚だったと思います。この作品以降、類似のマンガ、小説は増えたような気がしますね。先駆者ではあるとは思いませんが(異世界ネタはファンタジーの王道ですし)、PCというデバイスを通すことで、当時の少年のパソコンという現実的なあこがれと、勇者になれるという幻想的なあこがれを、うまくミックスして、ホビージャンプの読者を魅了したのではないかと思っています。

そういえば、ネットワーク戦士は、Dという名前で覚えているのですが、ネットで調べて見たら単語が見あたりませんね・・・。最後に読んだのは大学生のころですから、記憶が不確か・・・。


  

ネットワーク戦士は再刊されていないみたいですね。

で、今おっさんおにーさんの私が上記3作品を読んで面白いと思うか、同じく他の人にお勧めするかといえばそれはまた違うと思います。時代的な文脈、読書量、人間としての経験がマンガを読むにあたってその嗜好や満足度を大きく変化させると思っているからです。正直、ネットワーク戦士を大学生のときに再読したときは、「うーん? そんなに面白くないなあ」という感じでした。それは作品の問題では無く、読み手の問題ですから。

だけど、前述した三作品はこれからもまた機会があったら読み返すと思うんですね。自分のマンガを読む行為の、根底にあるわくわく感を育ててくれたマンガですから。

みなさんにもそういうマンガ、ありますか?

――――――――――――――――――――――――
さて、そろそろ本題のレビュー

といっても偉そうなことは言えないのですが。

トニイさんは、研究者ですが、ストーリィ・マンガ研究をしているわけではありません。最近、ストーリィではないマンガ研究をちょっとする機会があり、基本専門書をいくつか再読したりしていますが、網羅的には読んでいません。日本のマンガ研究の方法論よりはアメリカのそれの方に親しんでいます。網羅的に研究書を読むことは今後の課題としたいのですが、まぁ、基本的にはマンガ好きのおにいさんのレビューと思ってください。

このブログではあんまり研究的な方向には持って行かないつもりです。
で、以下はおよそ2年前にアマゾンのレビューに書いたものデス。

―――
もやしもん―TALES OF AGRICULTURE (1) (イブニングKC (106))
石川 雅之著
エディション: コミック
価格: ¥ 560

5 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
「かもしもん」でも、「もやしもん」でも, 2008/1/13

※感想批評や印象批評じゃないので読みにくいかもしれませんがお許しを。

「もやしもん」は2004年夏から隔週刊マンガ誌「イブニング」に掲載されている漫画である。これを手法から検討してみたい。

マンガ(コマ割り)の文法として、「もやしもん」は基本的にストーリーマンガである。しかしながら、作者も十分に留意しているように、ギャグマンガとしてのエッセンス(これを本質としてとらえてもかまわないと思うが、今回は射程外)と、一話読み切りの短編マンガとしてネームを切っている。故に、良質のオムニバス(orアンソロジー)作品としてとらえる読者もいるだろう。確かに作者の短編集「週刊石川雅之」を見ればわかるように、作者の短編は読み応えがあり、それがオムニバスとして集成されると、作品の「相互作用」によってその面白さは倍増する。その効果が、実は「もやしもん」にも生かされている。

ここまでは漫画好きな方であればお気づきと思うが、もう一点付け加えたい。「動物のお医者さん」や「モンキーターン」「のだめカンタービレ」をあげるまでもなく、近年丁寧な取材を折り込んで構成された漫画が増えている。フィクションと断りつつも、「もやしもん」もリサーチに裏打ちされた読み応えのある漫画である。しかし、「もやしもん」は上記の漫画よりも、よりデータ的側面を(作品の柱としてではないが)ひとつの「語り」(レトリック)として見せる。これはいしかわじゅんがひとつの分類として提議した情報マンガ(たとえば「カオスだもんね」や「あんたっちゃぶる」)の範疇と考えてもいいのではないだろうか。

ストーリーマンガ、ギャクマンガ、情報マンガの手法的なバランスが、じつは「もやしもん」の読み応えの一端を醸成しているのではないか。

(もちろん、この作品の評価はそれだけで定まるのではない。それはこのレビュー以外の皆さんの投稿を見れば一目瞭然である。思わず漫画のタイトルを言うときに「かもしもん」と言い間違う人がおおいのは、作品上の表現が読者の意識に根付いている証拠であるといっても言い過ぎではないだろう。)

 

――

このレビューは本当にうまく書けなくて苦労しました。確か当時、もやしもんのアニメが放送されており、作品自体への関心は高まっていたと思います。けど、マンガ原作の各巻のレビューを読んでいて、あまりクリティカルな感想がないこと、このマンガの特徴をうまくつかみ切れていない感じがしました。

正直に言います、私「もやしもん」、かなり大好きです![exclamation×2]

絵柄の好みもあるんですけどね、なんていうんでしょう、それぞれのキャラクターが持つ「うー」「あー」という悩みや、楽しみが、すっごく共感してしまうんですね。私自身の大学生・大学院生時代の生活にかなり重なり合う部分があるからでしょうか。

だけど、それをレビューとして書くのは難しいし、かなり多くのレビューが掲載されていたので、いまさら、面白いよ!!!と言ってもしょうがない気がしました。

で、実はこの本を読んだ時期は、石黒正数、大石まさる、藤田和日郎、そしてもやしもんの石川雅之さんの短篇集にはまっていた時期でした。子供の頃に、季刊の少年ジャンプ(シーズン・ジャンプというのでしょうか。マンガ家のデビュー作や、実験作など短編作品が沢山掲載されていました)を読んでいた影響でしょうか、短編作品はとても好きです。

で、石川さんの作品にホント惚れ込んでいたんですね。田舎に帰る息子の話とか・・・本当シンプルですが、うひゃひゃひゃひゃ、って笑えてしまう短編マンガは、愛してます。[黒ハート]

ただ、これらの石川さんの作品と、もやしもんには決定的に違う文脈があるのではないかとも思っていました。それでこれをどうにかうまく説明できないかと苦労しながら書いたのが上のレビューです。

1)綿密な下調べに基づいたマンガであること。
2)ストーリィマンガとしての側面だけではなく、背景となる情報を読者が有することでマンガの面白さが複層化していくこと
3)石川さんの他作品との相違を述べるだけではなく、ギャグマンガの手法においての共通性をも指摘すること

この三つ内容を柱にして書きました。でも、やっぱり800字というのは、難しいですね。今のところ、評価5のうち、賛成票は2しかついておらず、読んだ方が納得されていないというのがはっきりでていると思います。

ちなみに、一話読み切りでのネーム、という部分は1巻を読んでいての評価であって、最近の連載ではそれほど留意されていないと思います。フランス編以降は、1巻が一つの単位となってきていると行っても良いと思います。それでも、私は1話毎の構成の面白さがすごく際立っていると、いまだに読んでいて実感します。オクトーバーフェスト編でも、最後の盛り上がりの部分はまさしくストーリィ・マンガ的な連作となっていますが、前半部に関しては、1話1話がくっきりと目的があって、非常に読みやすいギャグ・マンガ的エッセンスがあると思うのですが、いかがでしょうか?

――――――――――――――――――――――――
うへ、また長く書いちゃったな。

こんな感じで、ここのエントリでは、マンガ関係の過去・未来のレビューを1ヶ月に1~2本書いていってみたいと思います。

ちなみに、マンガを、片仮名で書くか漢字で書くかについては、いまだに自分の中で揺らぎがあります。研究論文ではマンガとしていますが、上記のレビューでは漫画で書いてますね・・・。何となく近代の作品を指すときにはマンガなのかなぁ、と思っていたところがありますが、自分の中では、1世紀前の作品でも、政治漫画ではなく政治マンガと表記したりもします。なんとなく、名辞的な着地点を見いだしていない感じです。

そのうち整理をつけなければなりませんね。

ってなわけで、トニイでございました。まるっ。
  
 
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