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2009年に読んだマンガをGWに再読! [レビュー:マンガ]

マンガの話

※酔っぱらって書いたのでおかしいところが、いっぱいでしたので、書き直しましたー。ハハハ。

ゴールデンウィークです。世間一般はお休みですが、研究者なんてやってると、休みなんてなきがごとし。溜まってた提出書類をここぞとばかりに、ダダダダッと書きまくり、論文の抜粋を知り合いの研究者に送り、より良い条件を求めて公募への応募書類を書いたり、新しい論文をまとめたり、後輩のためにしなくても良い仕事をやってみたり、まー、いろんなことをやってます。

で、疲れます(笑)。こういう時の息抜きは、DVDをみるか、マンガを読むか、小説を読むか、ココアを飲んでぼへぇ~~っとするかです。で、細切れに、未見だった映画やオペラのDVDを見たり、2009年に買って読んだマンガを再読したりしてました。

2009年度はずっと忙しかったのですが、忙しければ忙しいほどチュッパチャップスが欲しくなるもので、ここ10年間のうちでは意外とマンガを読みました。と、今回アップするまでに草稿として書いていたブログ原稿ではそう思ってたのですが、この休みのうちに、本棚を作って本の整理をしてたら、意外とそうでもないことに気づきました。

(ミクシィ繋がりの人はご存じでしょうが。部屋が本で埋まってとんでもないことになっておりました。で、3月からDVD棚を新しいカラーボックスに入れ替えたり、押し入れの改造したり、いらない本や書類を整理したりしてたのが一段落して、やっとマンガの棚の整理に取りかれたわけです。(※研究書は全然整理してません。ハハ))

自分ではそんなつもりはなかったのですが、2008年も結構マンガを読んでたんですねー。どう考えても2008年に買ったと思われるマンガがドバッと出てきました。タイトルを見ているうちに、読んだ記憶も蘇ってきましたが、すっぽりと抜け落ちてました・・・。まぁ、きっと、忙しかったか、つまんなかったんでしょうね(笑)。よつばと、もやしもん、ワンピースなど、読者層の多い、いい表現ではありませんが、メインストリームのマンガが面白かった一方で、オムニバス(短編マンガ)に面白いマンガがなかった・・・ので、勝手に思い込んでたんでしょうね。トニイさんは、オムニバスが結構すきだったりします。ああ、ライドバックは結構楽しんで読んでたかな・・・。

2008年出版のマンガを入れてある段ボールに業田良家のマンガや手塚治虫がいっぱい入ってました。たしかに、そのころガーっと貪ったような・・・。意外とマンガよんでるんだなー、とちょっと反省[雨]

さすがに学部生の頃みたいに、マンガ強化月間とかいって、数万円をもって古書店に行って300冊のマンガを買って読みまくったり、みたいな無茶はできなくなりましたが。意外といまだに漫画は好きなようです。


で、今回は①マンガを巡る言説と、②お勧めマンガの話。

と、これまたブログ準備稿ではそう思ったんだけど、よく考えたら①については元となる研究者の許諾がいるなーと思い、ナシに。でも簡単に。

一般的な人のイメージするマンガ研究、マンガを説明する言説ってどんなもんでしょーか?

大きく分けると二つだと思うんですよね。

①、日本あるいは世界経済におけるマンガの価値

②、マンガのシステムを理解する上での、「コマ割り」を中心とする説明

こんな感じじゃないでしょうか? ①は経済論的意味づけ、あるいは経済的価値解釈で、マーケティングの問題ですね。 ②は、文法としてのマンガのお話。いったいマンガってなんぞや、ということを説明するときに使われるものでしょう。小説とも、アニメとも、映像ともちがうマンガってのは、どんなものなのか・・・。

メディアで社会学者がマンガにふれると、大抵この二つでしょうね。①はここ10年の経済不況の中で、マンガはそれに左右されない流通商品として強さがあるのではないかと考えられたことから(これも現在では異論があるようです)、②はまぁ、呉智英さんはじめとする80-90年代のマンガ解釈の一つの方向性を捉えた結果、という感じでしょうか(コマについては、秋田さんの著作もありますし、竹熊さんも強い関心を示されていますね。実証的な教育の脈絡でもなされているようです)。

ただ、今のマンガ研究は、この二つに収斂されるほど、狭くはありません。

心理学的な子供のマンガ受容を含む、マンガを読む読者についての「オーディエンス研究」、マンガ表現によって初めてなしえる(小説とも映像表現とも違う)ストーリィを主軸とした研究、マンガの著作権や権利、表現のありようからマンガを捉える「法的研究」、マンガを読む文法や手順からマンガを探る研究(自由自在にページを行き来することができる、ということですね)、学習マンガのように「教育の手段としてのマンガ研究」、コマ内の構成要素(フィギュアの配置など)を検討する「記号学的研究」(徽章学、意味論?なども含むのでしょうか。少女マンガ特有の「目の中の星」を扱うのもこの範疇ですかね?)、一つのマンガの一国内的認知と世界的認知の差違についての研究(間文化性?)などなど、枚挙にいとまがありません。

ちなみに私は、マンガを一次資料としてマンガ表象内にふくまれる時代性や当時の大衆意識を読み解く、というスタイルの研究です。意外とやってる人は少ないですね。派手さの全くない研究です。

また、これは研究ではありませんが、ある評論家は、漫画家が書いた原稿に編集や印刷業者の手によってセリフの写植が貼られていく過程によって、原稿が盛り上がっていくことや、出版社によって写植が張り替えられることについての、作業過程的な問題を取り上げた人もいます(こういうのには、原稿を巡る解釈が入るでしょうか?)


※上記の写植の話は、この本のなかで大谷さんが書いていらっしゃいます。正直言うと、文章がこなれておらず、読者を意識しない独りよがりの文章で、私は好きではありません。しかし、それを補ってあまりある面白い小論が西島さんのマンガと交互に織りなされていて、なかなか読み応えがあります。どうしても西島さんのマンガがメインと取られてしまうかもしれませんが、大谷さんの解説も(編集の手が入ってないのか、すっごいとがってたり、ゲンナリすることもありますが)共著者として堂々としたものだと思います。

こうしたマンガの全体像を、普通の読者はあまりにも知らなすぎるのではないか、最近そう思ってます。一度に知ろうと思うとパニックになること請け合いですが(笑)、一つずつ知っていくのは読みの問題にしても、マンガ環境の解釈にしても、有益だなあ、と私は思ってます。

あれ、長くなっちゃうな。取りあえず、一つ目はこの辺で切り上げ。

───

で、読んだマンガの話。

2009年は人生の中でも一・二を数えるほど忙しい時期でした。毎年2-3月は小劇団を中心に演劇を5-6団体は観劇するのですが、昨年は1つだけ。前半はマンガも小説もアニメもほとんど見てません。何をやってたのかというと、一歩進んで二歩下がり、三歩進んで二歩戻ってたのです。

・・・本職で256転512倒してたのですね。

※誤解されるといけないので書いておきますが、トニイさんは、マンガ研究が主軸ではございません。別分野の研究者なのですが、学際研究を進めていくなかで、一つの大きなテーマとしてやっております。いつの間にか、そのテーマ研究が、本来の専門研究を揺さぶるほど大きくなってくれたのは嬉しいことですが。

ただ、10月になると博論が一段落して、出すかどうかでギリギリ悩んでいるところで作業量が減り、比較的余裕が出てきたときに、息抜きを兼ねて、マンガとアニメを、一気にだだだだっと鑑賞したのですね。これはある意味正解で、案の定、自分の研究以外の作業が12月から怒濤のように押し寄せ、それが今年の3月まで続く結果になり・・・この時の息抜きが無ければ、きっと私、死んでました。時間があるときに、うまく時間を使いこなさないとダメですね。ほんと。

その話はさておき、10月から1月の頭にかけて、漫画で50冊くらい、アニメで20作品くらいを見ました。さすがに大学生の頃のように、1ヶ月や2ヶ月で漫画を数百冊読んじゃうような無理はできませんね。マンガ好きアニメ好きの人からすると少ないんだろうけど、ホント忙しいんですってば。

冒頭で書いたように、トニイは、大学生の頃に数万を手に、古本屋に駆け込み、漫画を100冊単位で買うようなことをやってました。もちろん、玉石混淆。すげぇ面白い漫画も、くっだらなーい漫画もいっぱいありました。でも、そのくらい読むと、なんとなく体系的なマンガ観ってのがパッと開けるんですね。もちろん、錯覚です(笑)。だけど、マップが頭の中に浮かんでくるわけです。そうすると、「マンガを読む文法」力が身につき、それこそ一作一作ごとに異なる沢山の文法を持つマンガ諸作品を、容易に読める感覚がつくんです。簡単に言うと、ノって読める。

これは映画でも、演劇でも、小説でも、そうだと思います。舌が肥える、そういう感覚を実感することができる。そういう楽しみ方ができた大学生時代というのはとても幸せ。

また脱線しちゃった(笑)。で、大学生の頃の読み方ってのは、臆病になったのか出来なくなってまして、石橋をそーっと渡るような読み方をします。他の人の紹介や、書評を参考にして読むようになりました。他の人のお薦めだから、どんなに読んでも外すってことがない・・・。以前はそう思ってました。先ほど玉石混淆っていいましたけど、石でも、つまらぁん!と思ったことって、意外と少ない気がします。

ところが今回そうして楽しそうなマンガを中心に選んだのですが、半分くらい面白くなかったんですね。半分くらいは目茶苦茶面白かった。俺、マンガ(作品)の文法を読み解くが力がなくなったんじゃないだろうか・・・と思いました。でも、面白くない本は何度読んでも面白いと感じなかった。なんで、あの人はこの本を薦めたんだろう? そう思うくらいハマらなかったんです。

ちょっと「もやもや」してたのですが、ある研究会で、社会学者でマンガ・アニメに造詣の深い小山昌宏さんが、われわれ(年配)の世代は少しずつマンガを読み、読む工夫をし、マンガを読むリテラシーを獲得したけれど、最近のマンガを読む人にはこのリテラシーを獲得する過程がない(大意)というお話をされていました。これは逆に、編集者にも作家にも、そうした可能性はあるし、例え、編集者も作家もリテラシーを持っていたとしても、読者のリテラシーに併せてマンガを構成する、というのはありそうな話だと思いました。(逆にいうと、私が現代マンガのリテラシー(ないしはその環境)を知らないのではないか、と思い至りました。)

結論としては、そんな現代マンガのリテラシーはいらん

だって、つまんないんだもん。(特に「萌え」などの記号に依存しすぎた世紀転換期から現在までのマンガが)

※追記:ゼロ年代という言い方があるんじゃないか、とある人に言われましたが、ゼロ年代という表現をここでしていいのかどうかというと、ちょっとためらいがあります。ゼロ年代にはそこから派生する、あるいはそこへと収斂する脈絡があると思うのですが、その脈絡に寄せた話じゃないので、つかっていません。

「記号」と「自動」をネガティブに配置し、そして感情や経験の欠落を前提とした、ソックスの高さすらもないハードルを前にしたマンガに何を期待できるというのか(これは私の持ってる感想)。そういう思いが、強く残っています。

さて、そういう風にして読んだマンガの中で、ちょっとがっかりだったのは、このタイトル。

・青山景(漫画)、花形怜(シナリオ)『チャイナガール』(小学館、2009年)
・掘骨砕十三『クロとマルコ』(秋田書店、2009年)
・中村珍『ちんまん 中村珍短篇集』(日本文芸社、2009年)
・竹嶌波『素っ頓狂な花』(小学館、イッキコミックス、2009年)

えっ? と思う向きも多いでしょうね。これらはみんな評価され、ファンもいる漫画です。これらの漫画を好きだという人がいるのは、非常によく分かります

だけど、俺は個人的な嗜好での拒否反応と言うよりは、単に読んで何も心に響かなかった、眉がぴくりともせず、客観的に見ても面白いと言えない、と思ったのです。・・・もっと簡単にいいましょう。退屈だったんです。

チャイナガールはマンガ家の工夫をよく感じたのですが、そう思うことが先に立ち、感情移入できませんでした。そこが浮いて見えてしまったのには、シナリオのつまらなさ(平凡さ)はさておき、工夫されたコマ割りや構成を際立たせるためか、逆に明らかに捨てゴマや記号的な表現もまた多くて、楽しいお話を読ませよう、という熱意を感じなかったことにあります。機械的に描いている感じがしてしまったのですね。

クロとマルコは論外です。ここまでつまんないと思った漫画はここ10年で、5冊目くらいです。絵柄は大好きな感じですね。きっと一枚絵のイラストだとファンになってたと思います。面白いアイデアや表現も結構あります。しかし、それが集まったとき、これって漫画になってますかね?と正直に思いました。作者は手のひらで自分の世界を揺るがしただけで満足してしまった。感情も、伝えたいことも、伝えたくないことも、テレも、なーんにもない。オモチャで遊びたくて、遊びました。ああ、つかれた。で終わっている漫画です。オモチャで遊んだぜぃ。いやぁ、面白かったあぁぁ! ってして下さいよ! 

ちんまんは、記号の寄せ集めです。多分、この短篇集を批判する人には、他の漫画のプロットや絵的な記号の寄せ集めだ、ということを言う人もいるでしょう。絵柄、ストーリー、ネタ、そうだと思います。でも、だから悪いというわけでもありません。集めてそれで終わった、というところが問題です。それから、コマの見せ方にこだわりすぎだという気もします。抑えた絵柄が良い意味での世界観を示している一方で、それらの絵柄を構成するコマ割りの一群が、読者との間に溝を作ってると思います。

彫り師の話なんて、すっごく面白い題材なのに、入れ墨にまつわる業界や職業的特徴の話にせず、どの業種でも通じるような一般的な話にしたおかげで分かりやすい(受け入れやすい)話になった一方、その独自性を失っています。彫り師じゃなくて豆腐職人にしても同じ話できるでしょ、と俺は思ってしまったわけですね。普遍化自体の面白さはあるけど、それは沢山の人が描いてきた道だろうと思います。

素っ頓狂な花は、怒られるなぁ。好きな人多いだろうなあ。これは俺の読み方の問題があるのかもしれませんが、頭にヤマダ紫や近藤ようこのようなつもりで読んでしまいました。それで正しいんじゃないの、という人もいるのでしょうけど、これ、裏表紙にある惹句「女の子たちのリアル」であるとは思いませんでした。この惹句だけカギ括弧付きなのが一つのポイントだとは思うのですが、本当は、「ウソを描こうとして上滑りした・・・」のではないかと見ています。この本だけ、上の三冊と違って、そうだとは言い切れません。ここは素直にご免なさい(笑)。はっきり言うと、まんが内の世界と読者である自分との間に距離がとれなかったんですね。

上記のマンガを読んでいて思ったのは好きな要素も多い一方、「マンガ」として好きになれなかった、ということです。


逆に面白かったのは以下の本。面白かったのを書いてもつまんないだろうけど(笑)。

大澄剛『家族ランドマーク』(小学館、イッキコミックス、2008年)
山本健太郎『ファイトじじいクラブ』(エンターブレイン、2009年)
岡崎二郎『宇宙家族ノベヤマ』1-2(小学館、2007,2009年)
市川春子『虫と歌』(講談社、2009年) 

 

 

長くなるのもあれなので、虫と歌についてだけ。

この短編はどれも、話の中盤くらいで、がらっと世界観を変える仕掛けがあります。読者の認知が変わるわけですが、その認識の変化が、世界を形作り、物語ります。単なる転ではなく、物語世界の展開と一緒に、読者の視野が広がる感覚があります。それを短篇集の形で連作で読むと、とても心地が良かった。お勧めです。

ちなみに、絵柄は好きじゃないです(笑)。そういえばノベヤマもそんなに好きな絵柄じゃないのに、ぐいぐい引き込まれて面白かったなあ。

ここにあげたのを中心として2009年に読んだマンガを、このGWに再読しまくったのですが、感想は変わりませんでした。私の「読み」・・・リテラシーの「くせ」もきっとあるのだと思いますが、記号的表現は、道具であって、メインのお楽しみじゃないないんだな、とはっきりと思いました。記号的表現がすなわち悪であるとか、そんなつまんないことはいいません。

記号がそのまま読者の教養であること、読者の記憶や経験を引き寄せることでマンガの読みをより能動的で楽しいものにすることもあります。しかし、それが主体となったときには、受動的でその他の表現手法を排除し、読み自体を作業にしてしまう・・・そのことによってマンガをつまらなくすることもあるのではないかなぁ、と思ったのでした。

と、そんなGW前半でございました。

新しく買って読んだマンガは「1-2メートルをかける少女」だけかなぁ。こういうマンガに対応できなくなってる(おっさん化してる)自分を感じました。小学生はこれを読んで楽しいんだろうか? きっと楽しいんでしょうね、読んでいるときは。このマンガの面白いところは、各主人公が手に入れた超能力は「きっかけ」に過ぎない、ということ。普通は超能力のあるなしでの、過去の自分と現在の自分のずれとか、周りへの意識への変化とか、センス・オブ・ワンダーを描いちゃうものですが、そういうのは一切なしで、前後で変わらない等身大の主人公がいるわけです。多分、超能力がなくても、この主人公は同じ結末を迎えたりするのでしょう。そこが逆に小学生読者の共感を得たりもするのではないかと思ったりしました。おっさん(=私)は、ニコニコ笑って見守るだけです。

酔っぱらいながらだと、ブログ書きやすいなあ。まぁ、これも錯覚だ。
さて、酒が残っているうちに、履歴書書こう(笑)。

それではまた。

まるっ


※朝起きて、「うへ、おかしいところいっぱいだぁ」と思って一部書き直しました。

※さらーに、書き直しました。酔ってブログの書くってダメですね(笑)。
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